トルコはなぜ親日的なのか?

「TEM 知恵の輪クラブが答えます。」

Q

トルコが親日的なのは、なぜ?

A

日本人旅行者にとって、トルコはこれまでヨーロッパよりも遠い国だった。ロンドンに四年間駐在したあいだも、東方へ足を伸ばしたのはギリシャまでだった。

イスタンブール大学で日本語を専攻し、さらに来日して名古屋の大学を卒業したトルコ人通訳のトンさんが、旅行客の質問に流暢な日本語で答えた。

「昔、トルコの船が和歌山県の串本で遭難したとき、たくさんの船員が村の人に救助されました。トルコ人は今もそのことを忘れていません」

1890年(明治23年)7月、トルコ将官を乗せた軍艦『エルトゥールル号』は、日本から本国への帰途、串本市(当時大島村)沖で台風に遭遇して沈没。581名もの遺体が浜に打ち上げられた。地元民による救助活動と手厚い看護で奇跡的に生き残った69名は、明治政府の庇護のもと無事本国に送り届けられた。懸命に遭難者の救命を行った村民は、極貧生活をも顧みず、貴重な食糧の鶏を惜しみなく供出したという。

「この献身的な行為が親日感情の原点だと思います」

トンさんは熱心に語った。当時のトルコと日本は、帝政ロシアという共通の敵を抱えていた。ロシアの南下政策による脅威は増大の一途で、クリミヤ半島を獲られたトルコは国家存亡の危機に瀕した。極東においてもロシアの南下は止まるところを知らず、1904年(明治37年)、ついに日露戦争勃発。日本海海戦でバルチック艦隊主力艦38隻を壊滅させた日本は勝利し、戦争は終結した。トルコ新聞は日本の勝利をわがことのように喜び、この祝勝報道がトルコ国民の親日感情に拍車をかけたであろうことも容易に想像される。

それから凡そ百年後の1985年3月17日。

イラン・イラク戦争下、サダム・フセインは突如イラン領空を通過する航空機の無差別撃墜を宣告し、イランからの民間人脱出に与えられた猶予は僅か四八時間だった。各国は自国機による自国民救出に成功したが、日本政府の対応は遅れ、首都テヘランに215名の日本人が取り残された。日本政府は残留日本人救援を諸外国に求めたが、これに呼応してくれたのはトルコ政府だけだった。同盟国というわけでもないのに、トルコ政府は特別専用機2機をテヘランに送り込み、爆撃開始期限の1時間20分前に日本人全員の救出に成功したのだ。

当時の駐日トルコ大使がプレスに向かって淡々と語った言葉は、こうだった。

「われわれはエルトゥールル号の借りをお返ししたまでです」

劇的な救出と大使の控えめな発言は、多くの日本人に大きな感銘を与えたこと疑いない。そして同時に、トルコへの感謝と裏腹に、テヘランからの脱出劇で唯一自国民の自力救出を果たせなかった母国政府に対して、日本人の多くが義憤と不信を感じたのではなかったか。

当時、イラクのバスラ近郊でウム・カッサール河に抑留された自社コンテナ船の運行担当者として本船救出策を模索していたが、無数の水雷が埋設された水域からの自力航行脱出は余りにも危険過ぎた。

情勢が悪化する中、会社の中近東関係者一同が集結したアテネで連絡会議開催中、当日まで行方不明だったテヘラン駐在Y氏が髭面でひょっこりと会場に現れたのには皆が驚いた。日本からの救援機が来ないことを知った彼は鉄道でロシアに逃れ、迂回路を探しつつアテネまで辿り着いたという。彼の果敢な行動力は、会議出席者全員を感動させた。トルコ航空による救出劇の裏に、日本政府による救援に見切りをつけて独力で脱出した勇敢な企業人がいたことは、ほとんど知られていないと思う。

あれから四半世紀余経過した今日、果たして日本の危機管理体制は改善されたといえるだろうか。まして海外に居住する日本国民を、万難を排して救う気概があるのだろうか。日本の固有の領土や領海を守り抜く毅然とした覚悟に欠けているのではないか。日本固有の領土たる尖閣諸島についても、隣国との折衝を見ると不信が募る。

TEM雑Q7

トータルEメディア出版刊 

中野洋一著良候人生ふたり旅

28ページ~30ページより

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