日新公の『いろは歌』とは?

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Q

島津忠良日新公の「いろは歌」とは?

A

『いろは歌』について

この「いろは歌」は、天文十四年(1545年)に、島津日新斎忠(ただ)良(よし)が作ったものと伝えられています。

当時、世は乱れに乱れた戦国の時代に突入しており、荒んでいました。九州の南端、鹿児島の亀丸城に生まれた忠良は、神仏への崇敬の心が厚く、また少年の頃から桂庵禅師に教えを受け、とくに朱子学を学んでいます。忠良は薩摩・大隅・日向の三国を平定した武勇の人でもありましたが、三国を統一し、その後の島津家の隆盛の基を作った人徳を備えた優れた為政者でもありました。

この「いろは歌」は忠良の五十四歳頃の作品ですが、そこには、これまでの武人として、また為政者としての豊富な経験から感得したものと、これらに「神・儒・仏」(神道・儒教・仏教)三教の教えを基にして作られています。

それは、人間としてあるべき道、武士として守るべき道を示しています。

そしてこれは、島津家という組織集団の幹部にとっては、部下管理の、組織員の兵卒にとっては、集団の中で生き抜く処世の訓戒ともなっています。

日新斎忠良は、この「いろは歌」を完成させると、ただちに家老の春成兵庫介久正にこれを持たせて京都に派遣しました。                                                                 

そして当時の連歌師の頭領である花の本宗(そう)養(よう)の批評を受けています。また、宗は関白近衛家の庇護を受けていましたので、宗養が近衛(このえ)種家(たねいえ)にこれを見せたところ、最初は薩摩のような辺鄙な田舎侍の作った、「つまらぬものだろう」と思っていたものが、最初の一首を見ただけで、「凡人の詠んだ歌ではない」と感じ入り、衣冠を改めて詠読されたといいます。

なお、この「いろは歌」には、宗養の寸評が付けられています。日新斎忠良は、まだ兵農の分離も十分でない島津の武士たちに、団結させるための精神的なバックボーンを入れると同時に、「いろは」の「い」の字も書けない者に、文字教育をすることも兼ねていたと思われます。この「いろは歌」の精神は、その後の島津家に連綿と引き継がれ、「朝鮮の役」「関ケ原の戦い」など、何度も島津家の危機を救っており、これまでに、島津家からは「バカ殿」は出ていないといわれています。

また若衆(にせ)教育では多大の効果を挙げ、郷中教育では、この「いろは歌」を暗記させて、心を鍛えたといいます。

明治維新の、西郷隆盛、大久保利通、大山巌、東郷元帥など、数々の人物を生み出しているのも、このような教育の背景があったようです。

薩摩藩では役人の心得としても尊重され、藩庁の家老席の床の間には、次の三首が掲げられていて、役人たちは登庁するとこれを吟じてから仕事に取り掛かったといいます。

「いにしへの 道を聞きても 唱ても 我が行いに せずばかいなし」

「科ありて 人を斬るとも 軽くすな 活かす刀も ただひとつなり」

「もろもろの 国や所の政道は 人にまず よく教えならわせ」

このような習慣が、現在の鹿児島県庁の役人の勤務に際しても、行われているのかどうかについては、聞きそびれました。

原典では、例えば「楼(ろう)の上もはにふの小屋も住人のこゝろにこそハたかき賎しき」という調子で、そのままでは現代人には詠みにくいので、本書ではなるべく、現代風に修正しました。

なお、この底本の写本は、島津家の古文書を蒐集・管理している「尚古集成館」にあります。

(TEM歴史Q1)

トータルEメディア出版刊

水野滋著「日新公の『いろは歌』」

7ページ~10ページより

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