歌 神道禊教 宗家七代教主管長 坂田 多治比 安弘先生紹介 

神道禊教(しんとうみそぎきょう)
教祖 井上正鐵(いのうえまさかね)(1790~1849)
開祖 坂田鐵安(さかたかねやす)(1820~1890)

立教  天保11(1840)年 4月15日
一教独立  明治27(1894)年10月19日
井上神社鎮座  明治12(1879)年12月12日

教団の歴史
教祖生誕 ― 神道中興の祖の誕生そして立教(天保の法難)―
神道禊教の創始者(教祖)は井上正鐵(いのうえまさかね)様です。
ご教祖様は寛政2年(1790)8月4日に江戸浜町で生れました。

父安藤真鐵様の救世済民の志を己が志とし、若き頃より神・儒・仏の大家に道を求めて諸国を巡り求道の半生を送られました。医者として人々を救う活動をする中、44歳の時に神の夢に導かれて神祇官白川伯王家に入門され、神道の修行を積まれました。

白川伯王家の神職許状を受けて江戸足立郡梅田村の神明宮の神主となり、神代から伝えられた神傳相承の神祇の道こそ、余すところ無く人々を救う唯一至上の道と悟り、神道の信仰による救世済民の活動に励まれました。

当時、ご教祖様の教えを求めて上は大名から下は無宿者までが毎日門前に市をなすほどに参集していたそうです。そんな時、余りに多くの人々が集まることを不審に思った幕府に嫌疑をかけられ、三宅島に配流となりました。

それを神道禊教では「天保の法難」と呼んでいます。

その時寺社奉行に差し出した教義書が「神道唯一問答書」として神道禊教の教典となっています。

7年に及ぶ三宅島の生活をされ、嘉永2年(1849)2月18日に60歳を生涯として、多くの門人の崇敬を一身に集める中帰幽されました。ご教祖様は広く「神道中興の祖」と云われています。

教祖直門の活躍 ― 文久の法難を経て一教独立、神道界の名門教団へ ―
幕府に嫌疑をかけられ新義異流とされ、ご教祖井上正鐵様の遠島という法難にも屈することなく直門たちは布教活動を続けます。

そんな中、ご教祖様から「末頼みある門人」と道統の末を託された直門高弟坂田鐵安翁も、活発な布教活動によりご教祖と同じく嫌疑をかけられ文久2年(1862)に江戸処払いを受けます。

それを神道禊教では「文久の法難」と呼んでいます。

しかし開祖坂田鐵安翁は、その法難にも屈することなく、ご教祖様帰幽の後、直門中唯一、白川伯王家に入門、ご教祖様の学ばれた神道の奥義を体得され、以後、江戸足立郡保木間村の庄屋の身分を捨てて神道禊教の布教を全国に展開しました。

特に北関東地方、東海地方、京都山城地方には草鞋がけの布教を展開し、多くの門中(神道禊教では信者の方々を門中と呼びます)を得て組織づくりをしました。

そして明治という新時代を迎え大赦令により赦免されたことと、開祖坂田鐵安翁の法難に負けることのない活発な布教活動の甲斐あって、往時は信徒一〇万余を数える大教団となり、「西の黒住・東の禊」と称されるに至りました。

明治12年12月12日には、明治陛下からの「西の黒住には孝明天皇が名を許したから東の禊には姓を許す」との仰せにより「井上神社」の社号を賜り、ご教祖井上正鐵様を祭神とする井上神社を現東京都台東区東上野に建立し、それを機に全国により一層の布教を展開、開祖坂田鐵安翁の息子坂田安治師が、明治27年10月19日に、明治政府から一教独立の認可を得て、以後教派神道の一派、政府の公認神道教団として活動を許されました。

以後、神道界の名門中の名門と云われ、常に日本宗教界の中心として活躍し、世界宗教界にもその名を輝かせるに至りました。

世界の宗教界で今日も行われている「一食献上運動」は、ご教祖井上正鐵様の「我、一飯を捧げて人の飢えを救う」の言葉と精神によるものです。

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